会津の歴史 戊辰戦争百話

第五十四話:間瀬家の会津戦争

慶応四年(一八六八)八月二十三日早朝、西軍が若松の城下に攻め込んで来た時
本二ノ丁にある間瀬新兵衛(三百五十石)宅には、妻のマツ、娘のミツ、ノブ、ツ
ヤ、ユウと長男岩五郎の妻ユキとその子清吉(六ヶ月)がいた。長男岩五郎は朱雀
足軽隊中隊頭として戦っており、次男の源七郎は白虎士中二番隊士として出陣し、
この日飯盛山に退いて自刃した。隣の赤羽家には五女キヨが嫁いでいたが、臨月の
身で実家に戻って来ていた。母のマツが、早鐘で入城の際はキヨをどうしたらよい
かと赤羽家に相談したら、実家の方々と一緒に立ち退いてもらいたい、という事で
あった。
敵の城下侵入を予感していた間瀬家では夜明け前に早々と朝食を済ませていた。
城内から戻ってきた槍持ちの覚内に戦況を聞いてみると、戸ノ口原では味方の方が
優勢で、敵を追い捲くっているという。ところが、突然早鐘が打ち鳴らされ、それ
からは大騒ぎとなった。間瀬家の者はすぐに支度をし、重要品を入れておいた垂駕
の所へ行ってみると、供をさせるつもりで申し付けておいた若党の小吉、善吉、そ
れに下女までが逐電してしまっていた。しかたなく一同はかねてから指示されてい
た若松城三之丸に入り、ミツ、ノブ、ツヤの三姉妹は、多少の危険を覚悟しつつ自
邸と三之丸を往復し荷物の搬入に奔走した。
ミツが残した、戦争体験の日記風覚書『戊辰後雑記』によると
「廿二日終夜、猪苗代方面所々に火の手見え砲声の音絶え間なく聞え候事故、廿三
日朝飯も夜明け前に仕り候也」
「廿三日、奥より御指図にて、手すきの者は手負い看病に出申し候。私は結び握り
に出候様に付き、黒米御結びにて固まらず、手拭に絞り固め候事」
とある。
臨月のキヨは入城の翌日産気づいて、小書院より奥女中の瀬山部屋に移され、中
森重次郎の妻が助産婦役をつとめ、二十七日の朝に無事女子を出産した。この日夫
の赤羽恒之助は城内にあり、やかんに酒を入れ、小魚の田作(たつくり)をつけて
持参。誕生した赤児に「ハツ」と命名してささやかな祝いをした。
瀬山部屋は広さは八畳敷で、三尺に二間の押入れがあった。そこに間瀬家の七人
と赤羽家のキヨと赤児のハツ、さらに川村丈五郎、石澤群六、吉村吉太郎という三
人の負傷者が一緒で、合計十二人の合部屋は混雑を極めた。その後、砲弾の破片で
傷を負ったユキ(長男嫁)は、浅手ではあったが、赤児の清吉を抱えているので再
度怪我をしないようにという奥の配慮により、藩主の御座所であった御休息の間に
移された。夫岩五郎は八月二十九日の長命寺の戦いにおいて戦死、舅新兵衛も九月
十四日城内において戦死した。
開城後、間瀬家の者には南御山村の元肝煎(きもいり)小林藤吾宅が割当てられ
さらに井手村の石山忠右衛門宅に移った。自刃した白虎隊士間瀬源七郎の遺体を飯
盛山まで探しに行ったのは、ミツ、ノブ、ツヤの三人の姉たちだった。
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