会津の歴史 戊辰戦争百話

第五十三話:和田家婦女子の殉難

会津藩士和田甚吾(百石)は伏見の役以来、父勇蔵と共に藩命を奉じて国事に奔
走しており、家には勇蔵の後妻ミワ、甚吾の妻ナカと長女のコマの女ばかり三人が
いるだけであった。ナカは入江庄兵衛の長女で温厚貞淑、よく婦道を守り、姑と力
を合わせて家政を治め、男たちをして内顧の憂いをなからしめていた。
しかるに八月に至って西軍四境より会津に迫り、姑のミワは、一旦危急迫らば女
子といえども恥辱を受けるべからずと、二十三日、家僕に対して暇を出した。同日
たまたま隣家の佐藤・諏訪の両家の婦人らが訪ねてきて、ともに難を避けるように
と勧めた。しかしミワは他事にことよせてこれを断り、男装して自邸の門前に出て
みたが、事態の急なるを見てとり、三人して一室に端座、互いに水盃を交わして城
を拝し、自邸に火を放つとまず幼い長女コマを刺し、姑ミワとナカはともに自刃し
たが介錯する者なく、二人は息絶えずして猛火の中に包まれていった。時にミワ四
十一歳、ナカニ十一歳、長女コマは三歳であった。
戦後、勇蔵は自宅の焼け跡に至り、灰炉の中から白骨と懐剣とを発見、妻や嫁が
自刃したことを知り、遺骨を拾い集めると大窪山の会津藩墓地に葬った。
また甚吾は母や妻の自刃之図を画かせ、その顛末を記して子孫に伝えたという。
▲西軍が城下に殺到した八月二十三日に、婦女子・子供が自刃した主な家(郭内)

図に掲載したのはほんの一部です。この他郭外の屋敷で、又寺などに集まって自
刃した人々が多数いました。ちなみに、殉難した会津婦人の霊を慰めるために昭和
三年十一月三十日に建てられた『なよ竹の碑』(善龍寺)には二百三十三名の名前
が刻まれています。
(管理人)
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