◆第五十二話:柴五郎の追憶◆
■柴五郎は万延元年(一八六〇)七月、会津藩家中に生まれた。父の名は佐多蔵で |
その五男であった。慶応四年(一八六八)五郎は八歳となり藩校日新館に入学し三 |
礼塾で四書の素読を始めたが、この年戊辰の戦火は会津に迫りつつあり、塾はやが |
て閉鎖となった。 |
■八月二十一日の朝、面川沢の別荘に留守番として住む大叔父東翁の未亡人きさ女 |
が訪ねて来て、五郎を茸狩りに誘った。母も勧めてくれたので五郎は喜んで面川沢 |
へと出かけたのであったが、これが結局は母と五郎の最後の別れとなった。 |
■五郎は翌日、きさ女にともなわれて茸・栗などを拾い集めて楽しく遊んだが、夕 |
刻になって山荘に帰り、下男留吉の子留太郎と遊んでいると、若松から帰って来た |
という黒森村の炭焼が通りかかり、城下は敵に包囲されて大騒動であると伝えた。 |
五郎が胸騒ぎしているところに、今度は下男の留吉が若松より帰って来て母からの |
伝言を伝えた。それによると明朝、陽が昇ってから留吉とともに帰宅せよとのこと |
であった。 |
■八月二十三日は夜半より大雨であった。五郎は午前六時頃、前日拾い集めた茸・ |
栗などの籠を下げ、留吉にともなわれて山荘を出たが途中まで来たところで大音が |
轟き、ずぶ濡れの避難民が道を埋めてこちらに向かって逃げて来るのと出逢った。 |
彼らは口々に西軍が城下に侵入して来たという。五郎は一刻も早く母のもとに帰り |
たかったが、北御山の北端に来てみると、黒煙のあいまから僅かに天守閣の白壁が |
見えるだけで、わが家とおぼしきあたりは一面の火の海で、もはや家にたどりつく |
ことは不可能なことを悟った。事実、この時すでに祖母・母・妹らは邸において自 |
刃していたのである。五郎はこのときの追憶を、その遺書の中で次のように書いて |
いる。 |
「余は豪雨やまざるも傘をすぼめて小脇にかかえ、避難民の群にもまれつつ二里の |
泥濘を踏みてもどれり。周囲の人々、呼吸のみ荒く言葉なし。手をひかれ危うき足 |
取りの小児ら泥にまみれて人相もさだかならず、声あげて泣くものもなし。生きて |
はおれど人心なき亡霊の群なり」 |
「面川沢の山荘に帰れば、逃れきたれる未知の人々百余人。屋内軒下に充満し、庭 |
前に濡れたるままたたずむ者また数知れず、ものものしき有様なり」 |
■籠城一ヶ月の後、若松城は落城となった。賊軍の汚名のもとで武器を捨てた一家 |
は東京に送られて謹慎。赦されての後は斗南に移住し、生と死と紙一重の悲惨な生 |
活を送った。五郎は向学心やみがたく、単身上京して陸軍幼年学校に入学、さらに |
士官学校へと進み、薩長閥でかためられた陸軍部内でめきめきと頭角を現した。明 |
治十二年陸軍少尉に、日清戦争では大本営参謀にと、五郎はその後も累進を重ね、 |
大正八年、武人としては最高位の陸軍大将に進んだ。五郎は戦陣に臨み数々の武勲 |
をたてたが、情に厚い謙譲の武人として人々に慕われ、いったん戦場に臨んでも会 |
津人たちが味わった敗者の悲惨な体験から、常に敗者の立場を忘れず、軍紀を厳し |
くし現地難民の救済に心を砕いたという。 |
■昭和二十年八月十五日、大平洋戦争敗戦の詔(みことのり)が下るにおよび、密 |
かに遺品を整理して、十二月十三日静かに自決した。享年八十三歳。柴家の菩提寺 |
である若松の恵倫寺に葬られた。 |
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