◆第五十一話:家老梶原平馬◆
■平馬は会津藩家老内藤信頼(二千二百石)の次男に生まれた。同藩の名門の家柄 |
である梶原家の養子となり、景武を名乗った。兄介右衛門信節は内藤家を継ぎ、弟 |
の信臣は武川兵部と称し、慶応四年(一八六八)五月、彰義隊信意隊長となり上野 |
戦争において奮戦した。 |
■文久二年(一八六二)藩主松平容保が京都守護職として上洛するや、平馬はつね |
にその側近として随従した。慶応二年、家老職に進み国事に奔走していたが、同四 |
年正月の鳥羽伏見の敗戦により容保らが会津に帰国した後は江戸に残留し、鈴木多 |
門らと共に横浜に赴き、エドワード・スネルから小銃八百挺、ならびに武器弾薬を |
買い付けて新潟港に回航した。また、奥羽越列藩同盟の結成に各藩の家老が仙台領 |
白石に集合した際はその陰にあって奔走し、籠城戦中は城内にあって内政を担当し |
た。 |
■籠城三日目、平馬は若松城鉄(くろがね)門の仮御座所にあって松平容保・喜徳 |
父子の御側に控え、筆頭家老西郷頼母に「越後口から引揚げて来る萱野・上田両家 |
老に会い、城に入らずそのまま防戦するように伝えよ」という御意を伝え、一方で |
砲兵隊頭大沼城之助と遊撃寄合組隊組頭芦沢生太郎の両名に対し、西郷の後を追っ |
てこれを討ち取るように命じた。主戦論の平馬は恭順論を唱える頼母を亡き者にす |
る計画であったが、大沼と芦沢の二人は命令を無視し、帰って西郷を見失ったと報 |
告した。 |
■平馬の妻二葉(山川大蔵姉二十五歳)は一子景清(三歳)を伴って入城、山川大 |
蔵の妻トセ(十九歳)と共に負傷者の看護や炊き出し、洗濯、消火などの任に当た |
っていたが、トセは九月十四日、西軍の総攻撃の際直撃弾を受けて絶命した。 |
■九月三日夕刻、藩士酒井寅之助の弟又兵衛が、多額の藩金を盗み天神橋口から脱 |
走しようとして、三之丸の南門で捕えられるという事件が起きた。平馬は藩法に照 |
らし、又兵衛の身分を剥脱するとともに五軒町で首を刎ね、捕えられた現場にさら |
し首とした。 |
■その後平馬は米沢藩を介して降伏の交渉を行い、軍事奉行添役秋月悌次郎、大目 |
付清水作右衛門、目付野矢良助らとともに開城式に臨み、西軍の軍監中村半次郎に |
諸藩老連署の書状を手渡した。松平容保が江戸護送と決せられた際には随行を命じ |
られ、鳥取藩池田慶徳邸に幽閉の身となった。藩老萱野権兵衛に切腹の命が下され |
たとき、死の朝命を伝える役目を果たし、また容保の実子容大に家名相続が許され |
るよう、旧会津総代として新政府に嘆願書を提出した。明治三年に斗南に移住し、 |
廃藩置県後は青森県庁の庶務課長を務めたこともあったが、その直後に平馬は姿を |
消した。妻二葉は平馬と離婚し、明治四年八月弟山川浩(大蔵)の一家と共に田部 |
より東京に移住、一子景清を海軍軍医学校に入れて、梶原の家名を継がせた。二葉 |
は同十年、東京女子師範学校に就職し勤続二十八年、高等官に任じ従五位に叙せら |
れたが、平馬のその後の消息は不明である。 |
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