会津の歴史 戊辰戦争百話

第第五十話:石塚観音の導き

慶応四年(一八六八)八月二十三日、西軍は疾風の如く若松の城下に攻め込んで
来た。この日の朝、国産奉行河原善左衛門の妻アサは白衣を着用し、小袴をはき、
襷(たすき)掛けに白布をもって鉢巻きをし、袖には「河原善左衛門妻」と書き、
薙刀を小わきに抱えると、善左衛門の母キク六十九歳、長女クニ九歳に下僕を従え
キクの甥である高木友之進の姉妹二人と共に、本一之丁の自宅を出て城に入ろうと
したが、飛弾猛烈にして進むことができなかった。やむなく川原町口郭門より郭外
に出て、湯川を渡って石塚観音堂の前に至った。ときに市民皆、難を避けて立ちど
まる者はなかった。これをみた姑キクは最早城にはいることは出来ない。まさに死
するべき時はきた。平常尊信するところの観世音の堂前で死することが出来ればそ
れにて本望と直ちに短刀を執り、喉をひと思いに貫いた。皆は驚き、その短刀を抜
いたところ、早く介錯をという。アサは見兼ねてこれを介錯し、クニに向かい、汝
も武士の子、敵兵に殺されるよりかは母の手によって死し、祖母や父兄と地下にお
いて逢うがよいと言うと、クニも幼いながら端座合掌した。アサは心を鬼にすると
この子をも刺した。
アサは姑キクとクニの首級を衣裳に包むと、下僕をして大窪山の会津藩墓地に葬
るように指示し、自らは高木氏の姉妹と共に湯川の橋を渡り、花畑を経て南町口郭
門に至った。ところが西軍は大町通りの北方より、城兵は西出丸より鉄砲を乱射し
て、城内に入ることができない。ひとまず杉本邸の門内に弾を避け、讃岐門よりよ
うやく城内に入ることが出来た。
▼河原善左衛門の家族一行の避難経路(想像図)
入城するや、城に入るまでの顛末を梶原平馬に報告し、隊後に従って進撃するこ
とを請うたが許されなかった。容保、照姫に召されて言葉を賜り、照姫に侍して城
内における傷病者の看護に当たることになった。越えて二十六日、会津藩小原砲兵
隊は石塚観音堂の境内に陣を布いた。このとき隊士の一人黒田九兵衛は境内に首の
ない死体が二体あるのを発見、誰の遺体かわからないままに鐘楼堂の傍らに埋葬し
た。
やがて城は開城となった。アサは次男の勝治十一歳を伴い、家族の遺体を捜しに
出た。石塚観音堂の境内に来てみると、伽藍の堂宇はことごとく焼け失せていた。
鐘楼堂の側には新しい土饅頭があり、形ばかりの石が載せてあり、花が手向けられ
ていた。胸騒ぎがして人に頼んで掘ってもらったところ、それは母と娘の遺体であ
った。さすがに気丈夫のアサも落涙し、声もでなかった。やがて気を取り直し、丁
重に納棺すると大窪山墓地の首と一緒に埋葬し直した。
その後次男勝治は、明治二十一年四月、函館において旧会津藩士の長女と結婚し
たが、これがまたどうした因縁か、この旧会津藩士こそ石塚観音堂の境内で、二つ
の首の無い遺体を埋葬してくれた黒田九兵衛その人だったのである。
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