◆第四十九話:若松賤子三十歳の追憶◆
■慶応四年(一八六八)八月二十二日、つまり賤子(しずこ)四歳のときのことで |
ある。戸ノ口危急との報に接し、城内に残っていた兵は急遽戸ノ口原へと出陣して |
いった。城内での予想としては、戸ノ口の十六橋を落としてしまえば西軍も容易に |
は日橋川を渡河することは出来まい。数日の間はここで西軍を阻止することができ |
るであろう。そうすれば、その間に各国境方面に派遣してある将兵を呼び戻すこと |
ができるし、迎撃態勢だって整えることができる、と判断していた。ところが西軍 |
の進撃は思いのほか急であった。十六橋は破壊する間もなく突破され、翌二十三日 |
の早朝には早くも若松城下に怒涛の如くに押し寄せてきた。城下ではあわてて警鐘 |
が乱打された。家中の者たちは城内に、町人らは戦禍を避けるべく郊外へと先を争 |
って逃げた。武家の女房たちのなかには、城内に入って男達の戦闘の足手まといに |
なってはならぬと自決する者もあった。 |
■このとき賤子は母が身重なため祖母に手を引かれて家を出たそうであるが、道は |
荷物を持って慌てふためく人々でごった返し、身動きもできなかったという。人波 |
にのまれて、西へ西へと押し流されているうちに流れ弾に当たって倒れる者、親と |
はぐれて泣き叫ぶ子供、将棋倒しとなりその下敷きとなって呻く者、そのまま圧死 |
する者など、まさにそれは現世における地獄絵図を見るようであったという。 |
■賤子は三十歳になったとき、幼い日の記憶を初めて次のように書いた。 |
「王政復古を告げる伏見の戦いが起きたとき、私は三歳でした。幼少ではありまし |
たが、この政権交代期のぞっとする出来事を、幾つか憶えております。私達親子は |
西京と会津における戦いで革命の産みの苦悶に直面しました。父は戊辰の英雄と言 |
われた有名な会津公の家臣でしたから」 |
「母と私達が城下をのがれて宮まで来たとき、妹が産まれた事をかすかに覚えてい |
ます。それからのろい乗り物で、はるか五百マイル以上先まで行きましたが、ふり |
返ると一面火の海となって戦争が続いていました」『会津城包囲』(英文) |
■賤子らの避難した先や、文中の「宮」というのは何社を指しているのか不明であ |
るが、妹の美也(宮子)はそこで生まれた。また賤子は小判の包みを持たされてい |
たそうであるが、途中で重いと言うと、祖母はこれを受けとって田圃の中へ棄て、 |
そのほか家を出るときにもって出た重代備前長道の刀や、その他僅かばかりの品々 |
もすっかり失ってしまったという。 |
■この頃、若松城は手薄を突かれてたちまち包囲されてしまったが、城は思いのほ |
か堅固で持久戦となった。賤子の父や祖父も城内に入って戦っていた。一方郭内に |
突入した西軍は若松城をすぐ目の前にしたが城の守りは堅い。このまま強引に攻め |
ればいたずらに味方の犠牲を増すばかりと判断し、後続部隊の到着を待つことにし |
て郭内の士邸に火を放ち、一旦郭外に撤退すると焼け残った町家や寺々に陣取った |
のである。賤子の家のある阿弥陀町の界隈は薩摩の守備区域として占領された。 |
■ |
■若松賤子(わかまつ・しずこ) |
■翻訳文学者。元治元年(一八六四)三月一日、会津藩士松川勝次郎の長女として |
阿弥陀町において生まれた。幼名は生年の干支に因んで甲子(かし)とつけられた |
が、成長したのちに「嘉志子」と改める。『若松賤子』は文筆活動のためのペンネ |
ーム。明治二十三〜五年『女学雑誌』に『小公子』の翻訳を連載し、圧倒的な人気 |
を博し一躍有名になる。 |
■賤子は戊辰戦争後は幼くして一家離散の境遇にあったが、生来利発で器量良しの |
ためか様々な巡り合わせの後に、日本女性として最高の教育を受けて才能を遺憾な |
く発揮した。三十三歳で病没するまでに五十数篇の創作・翻訳・随筆を書き、明治 |
二十年代の翻訳界にめざましい業績を残した。 |
|
|
■ |
次→◆第五十話:石塚観音の導き◆ |
|