◆第四十八話:田中土佐の自刃◆
■会津藩家老田中土佐(二千石)は田中土佐玄良の伜で、諱は玄清、土佐を襲名し |
大海と号した。 |
■文久二年(一八六二)藩主松平容保が京都守護職受諾を決意したとき、田中土佐 |
は西郷頼母と共に江戸に上り、容保に辞退するように諌言した。その要旨というの |
は今日の国内情勢は幕府にとって不利な様相で、この難局に際し京都守護職となる |
ことは、薪を負うて火を救おうとするのと同様で、労ばかり多くてその功はないで |
あろうという事であった。二人の意見の背後には尊王とか攘夷の思想というものは |
見当たらず、これまでの沿岸防備などで出費も大きくこれ以上の無理は避けた方が |
よいとする、領内事情を考慮した上での反対であったようである。 |
■この二人の意見に対し、容保の意志は既にきまっていた。閏八月朔日、登城した |
容保は京都守護職に任ぜられ、正四位下に昇進し役料五万石を賜るとの将軍家の命 |
令を受けた。容保の決意が固いことを知った藩では田中土佐を先に上洛させ、容保 |
就任の準備に当たらせた。 |
■しかるに慶応三年(一八六七)十二月九日には王政復古の大号令が発せられた。 |
これはまさしく、岩倉具視や薩摩・長州の指導者らを中心としたクーデターであっ |
たが、これは見事に成功した。さまざまな不満を抱えながら一旦は大坂に引き上げ |
た幕府の諸軍隊も、正月二日遂に一万五千の兵力をもって大坂を出発した。会津藩 |
兵は、田中・上田・生駒・堀の諸隊にわかれて同日淀に進み、翌日会津藩兵を先鋒 |
とする本隊は伏見街道を、桑名藩兵を先鋒とする別動隊は鳥羽から進んだ。こうし |
て西軍の数は幕府軍の半数にも遠く及ばなかったが、結果としては西軍の大勝利に |
終わった。 |
■同七日、徳川慶喜は幕府の前途を考えて大坂の守りを捨て、旧幕府の軍艦開陽丸 |
に乗り海路江戸に向かった。 |
■慶応四年(一八六八)二月、新政府は大総督府を設置した。新総督府は旧幕府勢 |
力に対して終始非妥協的であった。中旬には約五万の西軍が江戸の近郊に達し、三 |
月の十五日を期して江戸城総攻撃の態勢を整えていた。これに対し、勝海舟・大久 |
保一翁の説得により慶喜は次第に恭順の態度を固め、一月十五日には主戦派の小栗 |
上野介を罷免し、二月八日には、既に四日に藩主の座を子の喜徳に譲ることを申し |
出ていた松平容保の登城を禁止。同十二日には自らも江戸城を出て上野寛永寺に退 |
いて謹慎した。 |
■会津に帰った容保は、国家老田中土佐・神保内蔵助らの名前で、尾張・肥前など |
二十二藩に引き続き嘆願書を送り、恭順の意を示しながら、一方では着々と軍備の |
充実をはかり抗戦の決意を固めていた。 |
■若松城に母成峠の敗報が入ったのは八月二十二日の午前五時ころであった。思い |
がけぬ西軍の速攻に城内・城外は大混乱に陥った。ただちに西郷頼母・田中土佐・ |
神保内蔵助・萱野権兵衛・梶原平馬らが登城して防衛策を決めたが、主力部隊は既 |
に国境に送り出しているために、総軍は僅かに千余人を数えるにすぎなかった。同 |
夜半には戸ノ口原も西軍の手に落ちた。田中土佐は神保内蔵助と共に、甲賀町口郭 |
門で敗兵を叱咤して戦ったが西軍を防ぐことはできず、八月二十三日、郭内五之丁 |
の土屋一庵邸において自刃した。 |
■享年四十九歳であった。法名を精徹院殿忠亮玄清居士という。 |
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▲土屋一庵邸位置図 |
(管理人) |
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