会津の歴史 戊辰戦争百話

第四十七話:大川渡しの惨事

会津藩では藩士の家族に対し、万一城下に危険が迫れば警鐘を鳴らして合図をす
るから、その時には城に入るようにとの布告を出し、一般市民の避難もこれに合わ
せて行う手筈になっていた。西軍は戸ノ口原を一夜にして突破し、早くも八月二十
三日の早朝には若松の市中に進攻して来た。あわてた軍事局では直ちに警鐘を乱打
したため、藩士の家族や町人など城に入らない者たち数万人が、一斉に西方の山野
をめざして避難したので、いたる所で大混乱が起きていた。
市外西方にある大川(阿賀川)は川幅が広く、流れも急なため橋を架ける事がで
きず、舟を使い往来していた。この日は折悪しく篠突く雨で濁流が漲り、水の勢い
は通常の倍程もあった。川岸には多くの小舟があり、市内から逃れようとする幾千
の老人や子供、婦女は皆先を争ってこれに乗り込んだ。しかし、舟は多すぎる人数
の重さのために川の中程に来た所で転覆するものが幾艘もあり、その溺れる者が手
を上げ頭を浮べて救いを求めても水の勢いが急な上に、舟は人を満載しているので
これを助ける事ができない状態だった。川岸に群がっている者達はこれを見ている
にも拘わらず、またもや小舟が動かないほどに争って乗るという有り様である。し
かも舟に乗れない者は、衣を脱いで泳いで渡ろうとし今まさに対岸に着かんとしつ
つ溺れる者も沢山いた。
しかし、幸いにも沿岸の農民たちが全力を挙げて溺れる者の救助にあたったため
死傷者は比較的僅少に済んだという事である。
若松城下と大川の位置関係図
▲若松城下と大川の位置関係図
若松城の大きさと大川を比較して頂くと、川の広さがお分かり頂けると思い
ます。
若松城下の外堀に囲まれた部分は『郭内』と呼ばれ武家屋敷がありました。
外堀には出入口が十六箇所有り、それぞれ『○○口郭門』といいます。
郭門では数々の攻防戦がありました。
外堀の外側は『郭外』と呼ばれ下級武士、町人、職人などが住んでいました。
※図中ピンク部分は武家屋敷、周りのうすいオレンジ部分は寺社です
(管理人)
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