◆第四十五話:甲賀町郭門の戦い◆
■八月二十一日(母成峠失陥)の夜から降りだした雨は、二十三日に至ってもまだ |
はれやまず、秋の小雨は降り続いていた。西軍は既に昨夜のうちに戸ノ口原の入口 |
にまで襲来、砲音は城下まで響き、この日は早朝から銃砲声が滝沢方面より喧(か |
まびす)しく聞こえ戦いの近迫なるを知らせた。 |
■藩主容保が滝沢峠下の防禦陣地を引き揚げ、僅かの側近と共に甲賀町口郭門に到 |
着したのは午前九時半近い頃であった。容保はここにとどまって、守兵は僅かなが |
らこの関門を確保しようと自ら指揮をとった。在宅していた老人たちは各々手槍を |
提げて、続々とこの門に集まってきた。 |
■藩老田中土佐・若年寄守衛総括西郷勇左衛門・軍事奉行黒河内式部らは、滝沢村 |
を戦いながら蚕養町口まで下がり、ここで残兵を集めて敵を食い止めようとしたが |
敵の一隊は慶山下を迂回して東方より城に迫ろうとし、一隊は中村と同心町から城 |
下に侵攻し、わが軍の背後から突こうとする様が望見された。これでは危険だと見 |
てとった三人は手兵を集め、西郷は六日町口郭門へ走り、田中・黒河内は甲賀町口 |
郭門へと駆けつけた。両名と一団の兵がこの門近くに来てみると、味方の兵が郭門 |
に堰とめられて一之町まで溢れ、口々に「門を開けろ」と怒号している。みな戸ノ |
口や滝沢で戦ってきた藩兵たちであった。 |
■郭門守衛の兵士たちは、公命と称して僅かに小門を開き、一人ひとり調べながら |
城内に入れているから郭門前の兵士は増えるばかりであった。黒河内式部は藩兵を |
押し分けて門に近づき、開門せよと命じたが、守衛は公命を盾にとって門を開けな |
い。式部は声を張り上げて「たとえ公命を犯しても、わが兵を敵の手にゆだねる事 |
はできない。お前たち、守衛を斬ってでも門を開けよ」と叫んだから、藩兵数人が |
刀を振るって郭門に迫ったため守衛は恐れて退いた。これによって門前の兵はこと |
ごとく門内に入って守備についたが、その数四、五百名といわれている。 |
■田中土佐は兵を指揮し、近所の藩士宅から畳を運ばせてこれを門前に積み胸壁に |
しようとしたが、僅か数畳を横に並べたところへ早くも敵弾が飛来してこれを貫き |
防禦の役にはたたなかった。この郭門に進攻してきた西軍は、中村半次郎(桐野利 |
秋)・小笠原謙吉の率いる薩摩・土佐の精兵で、郭門に向かって突進してきた。こ |
れに対し会津兵は、蜷川友次郎・田原助左衛門らがまず門を開いて躍り出し、田中 |
土佐・黒河内式部の指揮で幼少組隊長佐瀬清五郎・砲兵隊長井深数馬・遊撃組頭馬 |
場清兵衛が各々手兵を率いて突っ込んでいったが、この場における会津兵は銃を持 |
つ者は極めて稀で、武器は刀槍だけであったから、忽ち敵の狙撃に遭って死傷する |
者続出。井上丘隅・山内遊翁・牧原一郎・原新五右衛門・春日郡蔵・高橋伴之助・ |
三宅弥七・多賀谷勝左衛門・丸山弥次右衛門・柳田自休・宇南山良蔵らは味方の屍 |
を踏み越え踏み越え、刀槍をかざして奮戦するが、敵兵は益々加わって凄惨・悲壮 |
の死闘が展開された。 |
■この二十三日の甲賀町口郭門の戦いは、会津戦争最大の激戦地となったが、二十 |
四、五日にかけて四境にあった藩兵は続々と帰城を果たし、防禦力も充実、やがて |
この郭門を西軍より奪い返し、九月二十三日の落城の日まで会津方の手によって守 |
り通された。 |
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