会津の歴史 戊辰戦争百話

第四十五話:甲賀町郭門の戦い

八月二十一日(母成峠失陥)の夜から降りだした雨は、二十三日に至ってもまだ
はれやまず、秋の小雨は降り続いていた。西軍は既に昨夜のうちに戸ノ口原の入口
にまで襲来、砲音は城下まで響き、この日は早朝から銃砲声が滝沢方面より喧(か
まびす)しく聞こえ戦いの近迫なるを知らせた。
藩主容保が滝沢峠下の防禦陣地を引き揚げ、僅かの側近と共に甲賀町口郭門に到
着したのは午前九時半近い頃であった。容保はここにとどまって、守兵は僅かなが
らこの関門を確保しようと自ら指揮をとった。在宅していた老人たちは各々手槍を
提げて、続々とこの門に集まってきた。
藩老田中土佐・若年寄守衛総括西郷勇左衛門・軍事奉行黒河内式部らは、滝沢村
を戦いながら蚕養町口まで下がり、ここで残兵を集めて敵を食い止めようとしたが
敵の一隊は慶山下を迂回して東方より城に迫ろうとし、一隊は中村と同心町から城
下に侵攻し、わが軍の背後から突こうとする様が望見された。これでは危険だと見
てとった三人は手兵を集め、西郷は六日町口郭門へ走り、田中・黒河内は甲賀町口
郭門へと駆けつけた。両名と一団の兵がこの門近くに来てみると、味方の兵が郭門
に堰とめられて一之町まで溢れ、口々に「門を開けろ」と怒号している。みな戸ノ
口や滝沢で戦ってきた藩兵たちであった。
郭門守衛の兵士たちは、公命と称して僅かに小門を開き、一人ひとり調べながら
城内に入れているから郭門前の兵士は増えるばかりであった。黒河内式部は藩兵を
押し分けて門に近づき、開門せよと命じたが、守衛は公命を盾にとって門を開けな
い。式部は声を張り上げて「たとえ公命を犯しても、わが兵を敵の手にゆだねる事
はできない。お前たち、守衛を斬ってでも門を開けよ」と叫んだから、藩兵数人が
刀を振るって郭門に迫ったため守衛は恐れて退いた。これによって門前の兵はこと
ごとく門内に入って守備についたが、その数四、五百名といわれている。
田中土佐は兵を指揮し、近所の藩士宅から畳を運ばせてこれを門前に積み胸壁に
しようとしたが、僅か数畳を横に並べたところへ早くも敵弾が飛来してこれを貫き
防禦の役にはたたなかった。この郭門に進攻してきた西軍は、中村半次郎(桐野利
秋)・小笠原謙吉の率いる薩摩・土佐の精兵で、郭門に向かって突進してきた。こ
れに対し会津兵は、蜷川友次郎・田原助左衛門らがまず門を開いて躍り出し、田中
土佐・黒河内式部の指揮で幼少組隊長佐瀬清五郎・砲兵隊長井深数馬・遊撃組頭馬
場清兵衛が各々手兵を率いて突っ込んでいったが、この場における会津兵は銃を持
つ者は極めて稀で、武器は刀槍だけであったから、忽ち敵の狙撃に遭って死傷する
者続出。井上丘隅・山内遊翁・牧原一郎・原新五右衛門・春日郡蔵・高橋伴之助・
三宅弥七・多賀谷勝左衛門・丸山弥次右衛門・柳田自休・宇南山良蔵らは味方の屍
を踏み越え踏み越え、刀槍をかざして奮戦するが、敵兵は益々加わって凄惨・悲壮
の死闘が展開された。
この二十三日の甲賀町口郭門の戦いは、会津戦争最大の激戦地となったが、二十
四、五日にかけて四境にあった藩兵は続々と帰城を果たし、防禦力も充実、やがて
この郭門を西軍より奪い返し、九月二十三日の落城の日まで会津方の手によって守
り通された。
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