会津の歴史 戊辰戦争百話

第四十四話:西軍の侵入城下の混乱

八月二十二日の夜、戸ノ口原の砲声が轟々(ごうごう)として城下に達するや、
市民は避難の準備に忙しく夜を徹して一睡だにしなかった。しかし西軍がいかに勇
敢といえども若松に入るまでには、尚一両日の余裕があるだろうと思っていると、
砲声は刻々と近づき悲報がしきりに届いて市民の恐怖は一方ではなかった。
翌朝二十三日、天明とともに西軍は滝沢坂頭に殺到して、剣光は頭上に閃(ひら
め)くが如く、砲火は耳を劈(つんざ)くが如しだった。東軍は皆血に濡れ、刀を
杖にして続々として退き来り、道路の雑踏は甚だしい。これに対し西軍の追撃は疾
風の如く、遂に若松に入りて市街で乱射するに至った。
これに市民は大いに驚いて、朝食をとる暇もなく多くは食膳を並べたまま、老人
を助け子を抱えて西方の山野に逃れた。故に数万の市民が一時に、七日町・柳原町
・材木町口に出て、先を争うのでぶつかりあう事甚だしい。殊に川原町橋、烏橋、
柳橋の如きは人が山のようになり、倒れる者、起きる事のできない者、死傷する者
が続々と相次いだ。路傍には、打ち棄てられた財貨があり、珍器什宝を狼藉する者
がいたり、泥に塗れた日用器具が放置されていたりする。しかし、流れ弾に中(あ
た)って息絶える者、うめく者が甚だ多く、またこれを助けて逃げ後れ、狙撃に遇
ったり流れ弾に倒れた者は数知れなかった。
この急激なる襲来によって父母兄弟を相失したり、一家各地に離散し生死も分か
らない者もまた多かった。殊に幼い子供が家族とはぐれ、弾丸雨飛の中に彷徨(さ
まよ)って、父を呼んだり母を慕ったり、幼き者同士で助けあい手をとりあって何
処ともなく走る。さらに、病人を担ぐ者、盲人を背負う者ありで、その混雑雑踏は
言いようがない。この時戦いは最盛で、猛火四方に起こり、烟焔空をおおって物凄
く、砲声殷々(いんいん)として雷の如く、人々の心は乱れてその極に達した。も
って西軍の侵入が如何に急激だったかが分かるであろう。
平石弁蔵著『会津戊辰戦争』より
(文章は読みやすく変えてあります)
■平石弁蔵(ひらいし・べんぞう)
明治六年十二月、旧会津藩士平石甚五郎の長男として若松新横町に生まれた。日
清戦争日露戦争に従軍し陸軍少佐に任官。会津中学校に軍事教官として八年間奉職
し、この間に戊辰戦争を綿密に調査。大正六年『会津戊辰戦争』を出版した。同書
はその後も増補改訂を重ね、戊辰戦争史の定本とされるまでになった。昭和十七年
に没した。
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