会津の歴史 戊辰戦争百話

第三十六話:白虎隊・西川勝太郎

■西川勝太郎(にしかわ・しょうたろう)
物頭西川半之丞(三百石)の息子。母は神尾織部友善(五百石)の五女きせ子。
嘉永六年(一八五三)正月、郭内本二之丁に生まれた。父半之丞は一刀流の達人と
して名があった。勝太郎は日新館三礼塾二番組に学び、慶応四年(一八六八)三月
白虎士中二番隊に編入された。八月二十二日、同隊士三十七人は藩主容保に随行し
て滝沢村に向かった。その時、隊を二分して一つは敵に当たり一つは滝沢を守るべ
き、という議があった。勝太郎はこれに対して、敵の衆、我の寡なる時すべてをも
ってしてもまだ足りぬというのに、これを二分したのでは進撃にも留守にも益する
ところなし、と言って反対した。皆もこれに同意し、全員戸ノ口原に出陣したが、
西軍の猛攻の前に戦い且つ退き、隊士らは皆飢え疲労の極に達した。事ここに至っ
ては寧(むし)ろ自刃して臣節を全うすべきのみ、と全員決意したが、勝太郎は、
事ここに至るといえども未だ弾丸は尽きず、刀も折れていない。しかも城落ちるや
否や、公殉するや否やも未だわかっていない。刀折れ、城落ち、公殉ぜるを見確か
めたのちに従容として生を捨てるも遅くはない、と言って反対した。皆も再び彼の
意見に従い、間道伝いに潜行しながら洞穴に至り、飯盛山に登って城を展望すると
煙は天に漲(みなぎ)り砲声は大地を震わしていた。これを見た勝太郎は、今こそ
義に殉ずるべきときなり、と言えば皆もこれに同意、従容として死についた。
ときに勝太郎十六歳。その霊号を節顕霊神という。
白虎隊自刃の図
【転載厳禁】
■白虎隊自刃の図(渡部菊二画伯/作)
この絵は大と小の二枚が描かれ、大きい方は記念碑のお礼にイタリアの
ムッソリーニに贈られ(焼失)、小さい方は『鶴ケ城』に収蔵されているそうです。
この写真は、絵がイタリアに送られる前に当時の『少年倶楽部』という
雑誌に掲載されたものを複写したものです。(管理人)
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