会津の歴史 戊辰戦争百話

第三十五話:白虎隊・永瀬雄次

■永瀬雄次(ながせ・ゆうじ)
丈之助次男。母は永瀬熊四郎興雅長女くら子。父はいわゆる入婿であった。家付
の婦はややもすると夫に対して、とかく従順さを欠く者が多いなか、くら子は妻た
る者の模範となるような人であった。父丈之助は祐筆として禄十八石三人扶持を賜
り、郭外花畑に住した。
雄次は日新館に入学し尚書塾二番組に編入され、戊辰の役に際しては白虎士中二
番隊士となった。母に頼んで草色の布地で洋服を作ってもらったが、もとより山野
に戦うときの草葉と彩色を同一にするための配慮によるものであった。また雄次に
は嫁いだ姉があった。彼女は「乾栗、大豆、胡桃(くるみ)、松葉」を盆に盛って
別れのはなむけとした。乾栗はかち栗と称し、大豆はマメ、胡桃は来る身、松は待
つで、「戦いに勝ち、つつがなく帰って来る身を待つ」という意味で、わが国にお
ける古来からの武家の風習であった。しかし雄次は、今日なんでこれを用いる要が
ありましょうかといって、ひとつも手をつけずに姉の家を辞した。
石筵(いしむしろ)口破れ、猪苗代城もまた陥り、敵まさに若松に迫ると聞き、
雄次はまだ朝食前であったが、装束も半ばにして銃をとると家をとび出した。母は
片方の脚絆を持ってその後を追い、諏方通りまで追いかけてようやくこれを着けさ
せたが、また下僕も弁当を持って雄次の後を追った。隊長日向内記のもとに至り、
出発の直前に少時を得てようやく朝食をとる事ができた。やがて隊伍が整えられ、
藩主容保に随従して滝沢に向かいさらに戸ノ口原に進んで西軍を迎撃した。しかし
戦利あらず、敵の一斉射撃を受けて雄次は腰部を負傷、一同は雄次を助けながら戸
ノ口堰の洞門をくぐり抜け、辛うじて飯盛山にたどりついた。そこから見える城は
早や紅蓮の焔に包まれていた。一同は潔く自刃を決意したが、雄次はすでに身体の
自由を失っていた。林八十治は雄次をたすけて差し違えようとしたが思うにまかせ
ず、野村駒四郎が介錯を手伝い、これまた返す刀でその後を追った。
ときに雄次十六歳。法名を功勲院忠誉義道居士という。
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