会津の歴史 戊辰戦争百話

第三十一話:白虎隊・篠田儀三郎

■篠田儀三郎(しのだ・ぎさぶろう)
供番篠田兵庫(二百石)の次男。母しん子は織部玄孝女、従兄田中土佐玄清(会
津九家の一)の養女となり、篠田家に嫁した。儀三郎は郭内米代二之丁に生まれ、
その人となりは至って正直で約を違えたことはなかった。六、七歳のころ友達と日
を決めて蛍狩の約束をした。ところがその当日は日暮前から大風雨となり、あいに
く蛍狩には思わしくない日となった。しかるに、儀三郎は蛍籠を提げて友達のもと
に行った。友達は驚いて「このような雨天に蛍が飛んでいる筈もない。なんで態々
(わざわざ)やって来たのか」と言った。すると儀三郎は、君と一旦約束したから
その約束を守って来ただけであると言って、その約束を解いて帰っていった。また
あるときは、友達の家で寄り合う約束をした。ところがその日に至って、雹(ひょ
う)が降りしきり、寒さもことのほか烈しかったので、友達は今日は誰も来ないで
あろうと思って悠々と構えていた。するとそこに、儀三郎は足駄を手にし従跣(は
だし)のままやって来たので、友達は大層愕き、かつ謝し、その後篠田の正直とい
えば誰も知らないものはなくなったという。十一歳にして藩校日新館に入り、尚書
塾一番組に編入されてしばしば賞賜を受けた。
慶応四年(一八六八)、戊辰の役起きるや白虎士中二番隊に編入され、その嚮導
(副隊長)に任ぜられた。戸ノ口原に出陣し西軍を迎撃するが、隊長の日向内記は
途中食糧調達のため隊を離れ、嚮導の儀三郎は代わって指揮をとった。西軍の猛攻
に退却を余儀なくされ、飯盛山までたどりついた隊士たちは、炎上する城下を見て
落城と思い込み自刃を決意する。飯沼貞吉が母から与えられた短冊を読み上げると
儀三郎もまた文天祥の詩を吟じた。石田和助が最後の章を誦和し「手疵苦しければ
お先に御免」とばかりに刀を腹に突き立て見事に自刃すると、儀三郎もわれ遅れず
とばかりに咽喉を突いてその後を追った。
享年十七歳。法名を賢忠院軍誉英信居士という。
■■ 過零丁洋 ■■ 文天祥
辛苦遭逢起一経 干戈落落四週星
山河破碎風漂絮 身世飄搖雨打萍
皇恐灘辺説皇恐 零丁洋裏嘆零丁
人生自古誰無死 留取丹心照汗青
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