会津の歴史 戊辰戦争百話

第三十話:白虎隊・井深茂太郎

■井深茂太郎(いぶか・しげたろう)
井深守之進重教(三百石)長子。名は重應、通称を茂太郎といった。母は、宗家
(会津九家の一)井深茂右衛門重孝次女清子。嘉永六年(一八五三)十月、郭内本
三之丁に生まれた。その性温順にして沈毅十歳にして藩校日新館に入学し、止善堂
(大学)に進んだ。普通であればまず四塾に編入され、四等から始まって、三等、
二等、一等と進み、試験を受けて止善堂に入学することになるが、十六歳以下で及
第した者は賞賜されるのがならわしであった。しかるに茂太郎は十三歳で止善堂の
入学試験に合格し『詩経集註』『易経本義』を賞賜せられ、会津藩内における青年
文士の名を挙げれば、茂太郎は必ずその筆頭に数えられていた。
その頃城南の天神橋袖に地蔵堂があり、深夜この堂に行く者があると必ず怪しい
事があるという噂があった。茂太郎は子供心に、どうしてそのようなことが起きる
のかと不審に思い、ある闇の夜に胆力を練るつもりでその地蔵堂に往き、じっと物
の様子を見、ブラブラとその辺を徘徊し、あるいは地蔵を罵倒して夜明けに至った
が、遂に何事も起きなかった。茂太郎は帰って人々に向かい「世の中に化物などい
るものではない。化物は憶病者が自分の心の中で拵(こしら)えるものだ」と意気
巻いたという。
しかしこうした剛胆な反面、極めて心優しい一面もあった。あるとき七、八歳ば
かりの幼児を連れた老爺が、大層憔悴して路傍に臥していた。茂太郎は哀れに思い
自分の懐中にある有銭全部を与えて慰めてやった。このとき茂太郎はまだ十五歳で
あった。
戊辰の役が起きると、茂太郎は白虎士中二番隊に編入された。世子喜徳、安積郡
福良村に出陣せられるや同隊士三十七人はこれに従い、茂太郎は記録役を命じられ
てその行動を記録した。西軍破竹の勢いをもってまさに城下に迫らんとするや、こ
れを戸ノ口原に迎え撃ったが戦い遂に利あらず、退軍して飯盛山上に自刃した。と
きに八月二十三日、茂太郎十六歳であった。法名を深明院殿忠道義人居士という。
藩の墓所、大窪山の先塋の地にも墓がある。
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