会津の歴史 戊辰戦争百話

第二十八話:白虎隊・伊東悌次郎

■伊東悌次郎(いとう・ていじろう)
伊東祐順(百三十石)の次男として、郭内米代四之丁に生まれた。母は武川頭軒
の姉すみ子。大伯父某は柔術に秀で、また東隣には砲術家山本覚馬の屋敷があり、
悌次郎は幼い頃よりこの二技については幼年者に似ぬものがあり、また騎馬もよく
した。十一歳のとき藩校日新館に入学し、尚書塾一番組に編入され、勤学をもって
しばしば藩公より賞賜を受けた。
慶応四年(一八六八)三月、悌次郎は白虎士中二番隊に編入せられ、世子喜徳に
随って安積郡福良村に出陣したが、その際、平素通学に用いる佩刀(はいとう)を
腰にして赴いた。在陣中悌次郎は感じるところがあって福良より父のもとに書を寄
せ、武士主君を衛るには名刀がなければなりませぬ。願わくば良冶の作れる佩刀を
賜えといって懇願した。父祐順はもっともと思い、財を傾けて備前兼光作るところ
の大小刀を購って与えた。悌次郎は欣然拝謝して、この恩賜を空しくしないことを
誓った。かくして八月二十二日、その刀を佩びて藩主容保を衛って滝沢村に向かい
さらに戸ノ口原へと出陣していった。だが戦利あらず、退軍の途中で戦死した。
享年十五歳であった。法名を仁進院忠節剣義居士という。
一説によると、事平らいだ翌二年春三月、親戚の井深氏では子茂太郎の死処を占
ってもらったところ、飯盛山に殉じ、戦友と共に同処に葬られたといわれた。直ち
に同処に至り屍体を掘り起こしたところ、果たして茂太郎の身に付けていた陣羽織
が認められ、同時に伊東悌次郎と書いた板札を帯びた屍も得た。そこで井深の者た
ちは、このことを悌次郎の遺族のもとに報せてきた。そのとき井深の遺族たちは冬
木沢に、悌次郎の遺族たちは新屋村にあったが、双者ともに各々の頭髪を柩に納め
先塋の地に埋め、遺体の方はそのまま飯盛山上に留め置いたという。
しかし飯盛山上で自刃した白虎隊士は当初十六人といわれ、十七回忌の際に、こ
の十六人と同じ行動をとったことが確認された石山虎之助が合祀された。
さらに飯盛山に到着する以前に戦死した伊東悌次郎、池上新太郎、津田捨蔵が合
祀されて十九名になったのは、明治二十三年二十三回忌に際し殉難碑が建立された
ときからである。
次→◆第二十九話:白虎隊・伊藤俊彦◆