会津の歴史 戊辰戦争百話

第二十七話:白虎隊・石山虎之助

■石山虎之助(いしやま・とらのすけ)
父井深数馬、母土屋省吾惟一三女そわ子の次男として嘉永五年(一八五二)三月
五日に生まれた。幼名を直次といい、のち行田(なめた)虎之助と称した。同藩外
様士石山弥右衛門(百五十石)に子がなく養子に迎えられ、屋敷は郭内四之丁にあ
った。その性温和ながら勇壮の精気は凛として眉宇の間に表れて犯すべからざるの
概があり、しかも穎敏にして記憶力に富んだ。五、六歳の頃百人一首を暗誦し、首
から尾に至るまで次序を誤ることがなかった。また人の談話を聞くことを好み、幼
い頃祖父母の膝下に侍して昔譚を聞き、ほとんど寝食を忘れるほどで、とくに英雄
豪傑の武勇談を好んだ。
文久三年(一八六三)十二歳にして初めて藩校日新館に入り、毛詩塾二番組に編
入された。文武の技芸俊秀、恩賞を受けることしばしばであった。
その頃郭内本一之丁に用屋敷と称する官舎があった。夜半にここを通る者は必ず
怪異があるということで、人々の忌み怖れる所であった。ある夜、少年数名で某家
に会合し、談たまたま用屋敷の怪異のことに及び、クジを引いて当たった者はこの
用屋敷に行くことを約した。果たしてそのクジは虎之助に当たった。折柄空は真っ
黒に曇って雨はショボショボと降り、夜はシンシンと更けて天地はあたかも墨を流
したごとくであった。だが虎之助は少しも躊躇せず、直ちに用屋敷の前に行き、そ
の前を往還すること数度、やがて帰ってこのことを皆に報告した。しかし誰も虎之
助の言を信用しなかった。そこで彼は、目印をして来たのでそこまで疑うのであれ
ば行ってこれを検べてみようと言う。一同同屋敷の前に至り燈をもってみたところ
確かにその門柱には石山家の家紋を刻した小柄が刺してあったので皆その剛胆さに
感服したという。このとき虎之助十三歳であった。
戊辰の役起きるや白虎士中二番隊に編入され、八月二十三日早朝戸ノ口原に西軍
を迎撃して利あらず、同志と共に退却口に戦死した。享年十七歳。飯盛山上に自刃
した白虎隊士は当初十六人と考えられており、この中に虎之助の名はなかったが、
十七回忌の際彼も他の十六人と同じ行動をとったことが確認され、自刃者の中に加
えられることになった。
法名を秀了院殿義覚剣忠居士という。
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