会津の歴史 戊辰戦争百話

第二十六話:白虎隊・石田和助

■石田和助(いしだ・わすけ)
父は侍医石田龍玄(七人扶持)、母は中村為七郎相雄女ちえ子。若松の城下紺屋
町に住した。医名は遠近に高く、和助はその次男として嘉永六年(一八五三)九月
某日に生まれた。母は産後の肥立ちが悪くて和助を乳養できず家婢の郷里である遠
村に託されたが、家婢また妊娠して乳養する事ができなくなり母の里方にやられ、
母は和助五歳のときに没した。その後は従兄石田昌訪の妻に養われ、やがて継母の
養育するところとなった。性剛直、酒を嗜(たしな)みまた学を好んだ。
十歳にして藩校日新館に入り、毛詩塾二番組に編入されて勉学怠ることがなかっ
たが、学校の帰途には必ず昌訪の家に立ち寄り、手ずから酒を温めて独酌数杯を傾
けるのを常とした。
また和助の家は農家より身を立てた人だったので朋輩らは「成り上がり者」とい
って嘲った。だが和助は笑いながら「余の家は農家より出て侍医になったのである
から成り上がり者に違いない。しかし君達の家は高位高禄の祖先より出て、今尚そ
の禄位を守るに過ぎない。その振るわないこと甚だしく、これでは先祖を辱めてい
るようなものである」といって言い返したので、さすがの朋輩もこれには返す言葉
もなかったという。
戊辰の役時には越後口に出陣する昌訪を郊外に見送り、その別れに臨み、国家の
ために自愛されよ、余もまた出陣を命ぜられるであろうが必ず誓って家名を堕さな
いであろうと決意を述べた。間もなく白虎士中二番隊士として戸ノ口原に出陣し、
戦利あらず飯盛山上の露と消えた。
享年十六歳であった。法名を秋山義遊居士という。
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