会津の歴史 戊辰戦争百話

第二十五話:白虎隊・池上新太郎

■池上新太郎(いけがみ・しんたろう)
嘉永六年(一八五三)五月十日、郭外廐町に生まれた。父は池上與兵衛、母佐藤
新子。新太郎幼少の頃に母新子は池上家を去り、継母三浦たみ子に養われた。たみ
子は側医三浦謙良の女で賢母の名があり、新太郎はその感化を受けること甚だ深か
ったという。十歳にして藩校日新館に入り、尚書塾二番組に編入された。十一歳に
して四書、十三歳に至り小学の賞賜を受けた。
戊辰戦争時には世子喜徳の小姓を務め、安積郡福良(ふくら)村に出張したが、
兵火会津に迫るに及んで白虎士中二番隊に編入された。青龍寄合隊半隊頭として前
線にあった父與兵衛は公事を帯びて一時帰宅したが、再び出発するにあたり新太郎
を呼び寄せ、三春・二本松の二城は既に陥ちた。汝の隊の出陣するのも間もなくで
あろうから、余が汝を見るのもこれが最後であろう。戦に臨んでは人に後れること
なく、また妄(みだ)りに進んで軍規を乱すことがあってはならぬ。家名を潰すこ
とがないようとくと戒め、別れの盃を酌んで出陣していった。新太郎もその後間も
なく日向内記に従って戸ノ口原に出陣したが、戦利あらず退軍の途中で戦死した。
享年十六歳。
戦後、母堂新子は新太郎が飯盛山上で自刃したと聞いて現地を訪れたが、吉田伊
惣次という者、既にその遺屍を市外妙国寺に埋葬した後であった。改めて遺品を柩
に納め、先塋の地法沼山浄光寺に葬り法名を義勇院忠達日清居士という。
明治二十三年、飯盛山上に自刃した白虎隊士の二十三回忌法要に当たり、同じく
飯盛山に至る途中で戦死した伊東悌次郎十五歳、津田捨蔵十七歳と共に、同じ飯盛
山上に合祀された。
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