会津の歴史 戊辰戦争百話

第二十四話:白虎隊・有賀織之助

■有賀織之助(ありが・おりのすけ)
有賀権左衛門(二百五十石)次男。母は高木小十郎の妹いく子。郭内本三之丁の
賜邸に住した。父母の膝下にあって純良厳正なる薫陶を受けて育った。幼い頃より
体格がよく、万延元年(一八六〇)四月、藩士ら相会し、城西鴨川原において大演
武会を催したとき織之助は九歳であったが、薙刀を振って大人を驚かせた。
長じて日新館に入り、三礼塾二番組に編入された。文武の教育を受け、天資の英
敏なること衆を抜き、その技芸大いに進んだが、織之助の長ずるところは文よりも
武に秀でた。その剣を撃つや剣鳴りがして風を生じ当たるべからざるの勢いがあっ
た。またある時、十数人の朋輩と鶴沼川に遊んだが、折柄雨後のことで濁流両岸に
みなぎり激浪怒号して誰も泳ごうとする者はなかった。しかるに織之助は直ちに衣
を脱ぎすてるや、身を躍らせてこれにとび込んだ。かくして矢の如き水勢のために
押し流されること数丁、九死に一生を得て対岸に泳ぎ着くことができた。友人らは
その無謀を戒めて陸路還るようにすすめたが、織之助は暫く少憩をとったのち、再
び水中に投じ辛うじて岸に到達した。身体は疲労その極に達し、気息喘々溺死しな
いのが不思議なくらいであった。友人らは相寄り、なぜその様な冒険をするのかと
問うた。すると織之助は、好んで冒険をするのではない、大丈夫は難に当たらねば
胆力を練ることが出来ぬからそれを試みたまでだと答えた。
またかつて、日時を定めて某氏宅に会することを約したことがあった。ところが
その時刻に至りにわかに猛雨しきりに来り、迅雷天地を震わせ、戸外に出ることも
できないありさまとなった。しかるに織之助は簑笠に身を装い、跣足のままで一刻
も遅れずに約した所に至り、聞く者すべてが感嘆したという。織之助はこのように
してその性極めて峻激なるところがあったが、みだりに争うことは好まず、また掬
すべき美質を有し人皆彼と交わることを楽しみとした。
戊辰の役が起きるや白虎士中二番隊に編入せられたが、まさに出陣せんとする時
母はお前は忠臣の息子である、いやしくも生をたのしみ、死をおそれて家名を汚す
ようなことがあってはなりませぬと言って戒めた。西軍侵攻するや戸ノ口原に戦い
軍に破れて間道を辿って飯盛山に退いたが、城陥ると思い自刃して斃(たお)る。
享年十六歳。法名を信忠院英山見雄居士という。
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