会津の歴史 戊辰戦争百話

第十二話:孤立する会津

戦火が会津の国境に迫ると、旧幕府要人は一斉に若松から姿を消した。奥羽越列
藩同盟の擁立した輪王寺宮は、六月十八日、米沢を経て白石に去り、旧幕府軍閣僚
の小笠原長行・板倉勝静・桑名藩主松平定敬・長岡藩主牧野忠訓らもこれと前後し
て若松を退いた。大鳥圭介も旧幕府伝習隊を率いて福島に去った。
残ったのは伝習隊の一部と水戸脱走兵、新選組の残りなど僅かの兵に過ぎなかっ
た。会津は米沢藩・仙台藩の援軍と、江戸を脱走した榎本武揚の旧幕府艦隊の援軍
に期待をかけたが、西軍も会津軍の捨て身の守備、東北各地に広がった内乱、近づ
いた冬を前に止戦工作を必死に進め、その決め手となったのは米沢藩であった。
西軍参謀板垣退助は八月二十六日、米沢藩に書を送って帰順を勧め、米沢藩も二
十八日以降、積極的に止戦工作に乗り出したのである。会津からの援軍要請を断る
とともに、若松を去った小笠原長行・大鳥圭介・竹中丹後らが福島で旧幕兵・仙台
・二本松・庄内・棚倉・山形の藩兵六百八人を十九小隊に編成して若松に援軍とし
て派遣しようとしたときもこれを圧力で解兵させた。ここに奥羽越列藩同盟は崩壊
を始め、会津は孤立した。
残された道は榎本武揚の艦隊と、仙台藩の態度であったが、当時仙台には神尾鉄
之丞・柴守三・柏崎才一・永岡敬次郎・南摩綱紀・諏訪伊助らがおり、品川港を脱
走した榎本艦隊の入港を待ちうけていて強く援軍を求めたが、榎本には北海道に新
天地を開く夢があり南摩らには兵約五十人と鉄砲若干を与えたにとどまった。
南摩らは榎本の兵を連れて九月三日に仙台を出発したが、途中で米沢藩兵に足止
めされ降伏謝罪を勧められた。南摩らは再び仙台に引き返し、米沢兵を突破する決
意で仙台藩の援軍をもとめたが、頼みとする仙台藩内部でも既に降伏の空気が強ま
っていて、藩主伊達慶邦は九月十四日西軍に降伏の嘆願書を送付、奥羽越列藩同盟
はここに事実上崩壊した。
東軍や榎本艦隊の救援の望みを絶たれた会津軍は日を追って敗色を濃くし、藩士
の脱走も目立つようになった。九月十九日、会津藩軍事局は手代木直右衛門・小森
一貫齋・秋月悌次郎を塩川村に駐屯していた米沢藩の陣営に遣わし、米沢藩を通じ
て土佐藩に降伏の意向を伝え、容保は九月二十一日会津軍に開城を告げ、翌二十二
日午前十時、鈴木爲輔・安藤熊之助らが北追手門に白旗を立て、籠城一ヶ月にわた
った城下の戦いに終止符がうたれるのである。
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