会津の歴史 戊辰戦争百話

第七話:青い目の軍事顧問

オランダ人、あるいはプロシャ人とも伝えられるヘンリー・スネルは、日本名を
平松武兵衛といった。幕末のころ横浜に和蘭三番館を開き、プロシャ公使館書記官
を勤めたこともある。
鳥羽・伏見の戦いでかなりの兵力・武力を失った会津藩にとって、武器・弾薬の
補給は重大な問題であった。会津藩がスネルと密接な関係に入ったのは、長岡藩家
老河井継之助の紹介によるものであった。スネルはその期待に添い、慶応四年(一
八六八)三月二十三日、会津藩家老梶原兵馬にライフル銃七百八十挺を七千二十ド
ルで売り渡している。梶原はこれをアメリカの汽船に積み新潟港から陸揚げした。
また梶原は旧幕府の順動艦を借り、旧幕府品川砲台・箱館砲台の大砲・弾薬・諸機
材等を新潟港に運んだ。 
河井継之助も同年三月、江戸の藩邸を引き払った際、宝物を横浜駐留の外国人に
売って数万両を得、スネルから大砲・小銃を購入し、同人の船で新潟港に輸送して
いる。
スネルが奥羽越列藩同盟の諸藩に売り込んだ武器の額はどれほどになるのか正確
にはわからないが、彼が新潟に渡来して以後、横浜から輸送された商品の価格は総
計十四万四千ドルという厖大なものであった。新潟港からの武器輸入が東北諸藩の
抗戦力をいかに高めたか容易に想像できる。
スネルと会津藩との関係はその後ますます親密さを増し、会津に入国したのは四
月上旬のことであった。会津入りしたスネルは松平容保の親任を得、餌鷹町に屋敷
と平松武兵衛の日本名を賜り、会津藩軍事顧問として羽織・袴を着用して大刀をた
ばさみ、すっかり会津武士気取りで西洋軍法の伝習、機械の製造、金・銀山の開鑿
などを指導した。
この頃、庄内藩の御用商人本間友三郎も会津にスネルを訪れ、武器の購入につい
て協議し、軍備面における増強をはかっている。
六月になると、会津・米沢・仙台・庄内・村上などの諸藩が新潟に重臣を派遣、
同港は奥羽越列藩同盟諸藩がさながら共同管理する形となった。それだけに越後方
面の戦いは、戊辰戦争のなかでももっとも規模の大きなものとなり、その勝敗は戦
局に重大な影響を与えることになった。
それより先、西軍は四月二十三日、高田に兵を集結していた。黒田了介(清隆)
・山県狂介(有朋)を参謀とする約五千人で彼らは会津軍の兵器補給港となってい
る新潟港の奪取を当面の目標にかかげた。戦闘は五月の中旬から始まり、同十九日
には山県の率いる長州藩兵二小隊、薩摩藩兵三小隊が信濃川を強硬突破して長岡に
攻め入り、同城の攻防戦を展開した。
海軍力のない東軍は、西軍の攻撃を阻止することができず、同二十九日、新潟港
は西軍の手に落ちた。英国船二隻を雇用して武器・弾薬を輸送陸揚げしていたスネ
ルは捕らえられた。幸いスネルは直ちに釈放されたが、東軍の武器・弾薬の補給路
はここで完全に断たれ、八月一日ついに全軍の退却を命令し、藩境一帯に塁を築い
て西軍の攻撃に備えることになった。
スネルは、会津の籠城戦中、戦禍を米沢・仙台に逃れ、戦後はおけいなど女性を
含めた会津の移民団を引き連れて、アメリカに渡ったことが知られているものの、
「若松コロニー」失敗後の消息についてはほとんど不明で、殺されたという説もあ
る。
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