◆第五話:上野の彰義隊◆
■慶応四年(一八六八)二月十一日、橋府随従之有志の名をもって旧幕府陸軍諸隊 |
に檄文を発した者があった。檄文の筆者は陸軍調役並本多敏三郎、同じく伴門五郎 |
の両名で同勤方須永於菟之輔の提唱によったものといわれる。 |
■慶喜は明けて十二日払暁、僅かの供を従えて江戸城を出駕し東叡山に入った。こ |
のとき集まった者は十四人に過ぎなかったが、二月二十三日に浅草東本願寺で発会 |
式をあげたときに集まった者は百三十余名。その出で立ちは槍を提げてくる者、鎧 |
を着て乗馬で来る者などさまざまで、じつに珍しい眺めであったという。この日、 |
東本願寺の表門には「尊王恭順有志会」の看板が掲げられた。 |
■東本願寺に集まる幕下の有志は、三日のうちに三百名を超えた。このため一隊を |
起こす事になり、衆議によって彰義隊と命名され、頭取に渋沢成一郎、副頭取に天 |
野八郎、幹事に伴門五郎・須永於莵之輔・本多敏三郎を選出、さらに同盟哀訴状と |
いうものを作成し、閣老松平三河守(硝堂)に差し出し、征討軍に伝えてくれるよ |
うに言上した。彰義隊の存在を「征討軍に備える」ものと解されることを恐れた幕 |
閣は、翌日、西の丸大広間において改めて隊名を「彰義」と賜り、江戸市中取締ま |
りを命じたのであった。 |
■彰義隊の威望を慕って入隊を請う者はあとを絶たず、まもなく五百名を超すにい |
たった。彰義隊はもともと規律厳正を欠く嫌いがあったが、規模が大きくなるに従 |
ってますます過激な言動が目立つようになった。奥羽諸藩と結び、法親王を奉戴し |
て義挙を起こそうという説も、隊士の間で盛んになってきた。勝海舟は彰義隊に対 |
し解散を勧告したが、もとより聞き入れる彼らではなかった。 |
■五月一日、大総督府は彰義隊に委ねられていた江戸市中取締まりの任を解き、自 |
らこれに当たることを布告した。彰義隊はいよいよ市中各所において新政府の兵と |
衝突事件をおこした。大総督府は軍務局判事大村益次郎の意見を容れて、十四日、 |
市中に高札を出して彰義隊討伐の布告を出した。 |
■征討軍の上野攻撃の部署は、まず湯島を経て黒門口に向かうのが薩摩・因州・肥 |
後の各藩兵。団子坂から背面を突くのが長州・大村・佐土原の各藩兵。砲隊を主力 |
とする肥前・筑後・尾張・津・佐土原の各隊は本郷台に陣をとり、側面から攻撃す |
る手筈であった。総勢およそ二千といわれている。これに対し彰義隊は一説に三千 |
ともいわれるが、「戦争近し」と聞いて臆病風に吹かれて脱走する者も多く、実数 |
僅か千人ほどに減少していたという。 |
■五月十五日未明、征討軍は夜来の霖雨いまだ降りやまぬ中、今の二重橋外に集合 |
し、各部署に向かって行動を開始した。黒門口を攻める薩摩兵は西郷吉之助、因州 |
兵は河田佐久馬、肥後兵は津田山三郎が指揮した。正午ころまでは勝敗いずれとも |
決しなかったが、本郷台に据えられた肥前藩のアームストロング砲が威力を発揮し |
薩摩兵は突撃の合図によって黒門に突入した。 |
■「黒門口敗れる」の報を聞いて彰義隊は壊乱し、征討軍は寛永寺の堂塔伽藍に火 |
を放って残敵を掃討、彰義隊は完全に壊滅した。この戦争による戦死者は征討軍側 |
の四十余名に対し、彰義隊側は二百余名に達したが、戦死者のなかには彰義隊発起 |
の一人伴門五郎も含まれていた。残余の隊士らで、品川沖に停泊する榎本武揚の艦 |
隊に投じた者も多かった。 |
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