会津の歴史 戊辰戦争百話

第三話:砲術家 山本覚馬

山本覚馬は文政十一年(一八二八)一月十六日、若松城郭内に生まれた。父の名
は権八、幼名を義衛と云い諱(いみな)を良晴といった。山本家の遠祖は甲州武田
の軍学者山本勘兵衛で、代々兵学をもって藩に仕え、父の権八は藩の砲兵指南であ
った。九歳の時に藩校日新館に入り文武館で講習を受け、二十四歳にして弓・馬・
槍・刀の奥儀を極め、ことごとく師伝を得て藩主の褒賞を受けた。
若くしてより兵学を志し、江戸に出て大木衷城について蘭書を学び、自ら着発銃
を発明した。二十九歳のときに郷里に帰り、藩主に用いられて日新館の教師となり
館内に蘭学所を設け、文久三年(一八六三)には、海防論である『四門両戸を守る
策』を建言した。
覚馬はさらに会津藩の武器改良の必要性を説き、火縄銃の廃止を建議したが当路
には受け入れられず、上司と激しく論争したために禁足処分に付せられた。しかし
それでも覚馬の意志はいささかもくじけず、いよいよその初志を果たさんと百方有
志を説いてまわり、遂にその意志を容れさせる事に成功した。これによって会津藩
の兵制はようやく改められ軍備もまた面目を一新したため藩主は覚馬を抜擢し、職
俸十五人口を給し軍事取調兼大砲頭取に任じられ、祐筆の上席に進められた。
元治元年(一八六四)、覚馬は京都在勤を命じられたが、このときすでに藩主は
守護職を拝命して京都にあった。上洛した覚馬は佐久間象山と相識り、火技を極め
象山の暗殺されたとき、覚馬は真っ先に駆けつけた。
七月十九日には禁門の変が勃発した。その前夜、長州藩士國司信濃、福原越後ら
はその主のために寛を訴えると称して兵を率いて禁門を犯したため、蛤門を守護し
ていた会津藩の兵士らはこれを撃ち、覚馬は門を開いて突進し門外において大激戦
を展開した。この時薩摩の兵士らが援軍に駆けつけたため長州兵は退いたが、退い
てなお鷹司邸に籠もって抗戦をつづけた。越前・彦根の兵がこれを攻めたが、敵を
抜くことはできなかった。覚馬はこれをみて大砲をもってこれを粉砕、さらに敵が
天王山に籠もる所をこれをも粉砕した。容保は覚馬の戦功を賞し公用人に任じた。
覚馬はこれによって幕府や諸藩の名士らとも交わる機会が多くなり、大いに議論を
上下して内外に活動を展開したが、急に眼疾を患い失明するの不幸に見舞われた。
覚馬は公用の職から身を引いて、清浄華院において静養していたが慶応四年(一
八六八)の正月三日、鳥羽・伏見の戦いが起きた。朝廷は嘉彰親王を拝して征夷大
将軍に任じ、錦旗ならびに節刀を賜った。覚馬はこれを聞くと会津藩が大義を誤り
賊名を得ることを憂いて会津兵を説諭しようとして伏見に駆けつけたが、道路はす
べて塞がれていて通れなかった。やむなく山科より京にはいって、会津藩の朝廷に
敵する意のないことを申し開きしようとしたが、途上で薩摩の巡邏兵のために捕ら
えられてしまった。薩兵は、覚馬が会津藩士である事を知って直ちに殺害しようと
したが、なかに覚馬を知る者があり、彼は会津の名士であることを説明して一命は
助けられたものの、身柄はそのまま薩摩藩邸に監禁されてしまった。『管見』は覚
馬が囚われの身となりながらも国情を案じ、自己の見識をつくして政治、経済、教
育文化、科学にわたる論文を口述したものでる。
明治二十五年(一八九二)十二月二十八日死去した。享年六十五歳であった。
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