◆第二話:神保修理の死◆
■神保修理は、会津藩家老神保内蔵之助(千二百石)の長子である。容姿まことに |
閑雅で藩校日新館の秀才であったと伝えられている。 |
■慶応二年(1866)、会津藩は時勢に鑑み藩政の大改革と人材登庸を企画、容保は |
修理と佐川官兵衛の将来を嘱望し、修理を西洋文明輸入の門戸である長崎に遣わし |
て内外の大勢を視察させた。 |
■修理は主君容保とともに京都にも上り、諸藩の動静に対して広く内外人と接触。 |
伊藤博文・大隈重信等とも交わりをもち、常に国内の小事を排し、挙国一致して外 |
国に対処することを持論とした。 |
■慶応三年十二月、将軍慶喜が大政を奉還して大坂に退くや、修理は長崎より急き |
ょ大坂に戻り、慶喜と容保にまみえて江戸に帰ることの得策であることを言上し、 |
大坂に拠って戦うことの不利を訴えて恭順説を唱えた。このとき幕臣の勝安房は修 |
理とは友人の関係にあり、彼もまた修理の意見に賛成であった。ところが会津藩の |
内部では、鳥羽・伏見の戦いで敗れたのは修理が西国の士に知己が多く、彼が西軍 |
に通じていたためだと称し、彼の恭順の態度を厳しく非難、全藩の怒りを一身にか |
っていた。 |
■容保は、修理が会津に帰れば殺気だった者たちのために危害を加えられるであろ |
う事を憂い、和田倉の上屋敷に幽閉した。勝安房はこれを聞き、修理の身を按じて |
慶喜に話し、公命をもって修理を呼び寄せようとした。ところがこの事がまたも知 |
れると会津藩士らの怒りはますます激しく、彼らは修理の身柄を公に渡すことをた |
めらい、反って容保に修理の処断を迫った。 |
■修理はまもなく藩士らの手によって三田の下屋敷へと檻送された。一方慶喜に対 |
しては長輝は病気であり、病が癒えたら召命に応えさせましょうと伝えた。そして |
数日後彼等は修理に対して自刃を迫った。修理は主君に面接することを乞うたが、 |
有士らはこれを拒みかえって主命と偽って彼に切腹を命じた。 |
■修理は死に臨み、左右の並びいる者に対し、「自分はもとより罪はない。しかし |
君命とあらばこれを守るのが臣としての道である」と言って従容として自刃した。 |
時に慶応四年(1868) 二月二十二日、修理三十歳の春であった。 |
帰りこんときぞ母のまちしころ はかなきたより聞くへかりけり |
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これはそのときの辞世だが、自刃の前日、心境を吐露した詩を賦して勝安房に贈 |
っている。 |
一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。
すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。
真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。
人臣の節義は斃(たお)れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、
請う岳飛(※)の罪あらざらんことをみよ。 |
「旧会津藩先賢遺墨附伝」より |
※…岳飛=南宋の忠臣。文武にすぐれ、しばしば金の軍を破って忠誠を
尽くしたが、秦桧に反対して謀殺された。後、忠義がたたえられて
武穆とおくりなされた。 |
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■彼の遺体は三田白金三光町興禅寺に葬られている。 |
■諡(おくりな)を「遺徳院殿仁道義了居士」という。 |
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