◆第一話:鳥羽・伏見の戦い◆
■慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古の大号令が発せられるや、同日夜、 |
小御所会議において旧幕府勢力の一掃を謀る参与岩倉具視や薩摩藩などの討幕派は |
徳川慶喜の辞官・納地を押し通した。 |
■この決議に憤激する旧幕臣、および京都守護職を免ぜられた会津藩、京都所司代 |
の職を解かれた桑名藩の藩士たちは討薩を叫んで京都二条城に結集した。徳川慶喜 |
は彼等の軽挙妄動を戒めるべく、十二日に大坂城へと立ち退いた。会津藩主松平容保・ |
桑名藩主松平定敬・備中松山藩主板倉勝静らもこれに従い、いきりたつ将兵どもも続々 |
と入城してきた。京都対大坂の風雲はまさに急を告げ、翌四年(戊辰)一月二日、これら |
将兵どもは伏見・鳥羽の両街道より北上をはじめ、同日夕刻、その先鋒の会津藩兵 |
三百がまず伏見奉行所の西にある本願寺東御堂に入り、夜にかけて諸隊は次々に |
到着した。 |
■これを迎える西軍は、翌三日の午後五時頃まず鳥羽口にあった野津鎮雄の下知に |
よって先制の火蓋が切って落とされ、これが幕軍の砲車に命中した。鳥羽方面に砲声 |
の上がるのを見るや、御香宮邸におかれた薩摩藩の砲も伏見奉行所めがけて火を噴き、 |
戊辰戦争への戦端となった。一方幕軍は討薩の激情に駆られたというものの、これを統率 |
する指揮系統というものはなく、これに反して討幕軍は、西洋式兵備・訓練を取り入れた |
精兵によって編成されており、寡兵よく衆敵を凌ぐ結果となり、幕軍は大敗を喫した。 |
因にこのときの薩長勢約四千、幕兵約一万五千であった。 |
■鳥羽・伏見の役で勝利した西軍は、翌四日早朝、征討大総督に仁和寺宮嘉彰親王 |
を戴き鳥羽・伏見両街道から進撃を開始した。 |
■総督宮は五日の午前八時頃に東寺の本営を進発し、鳥羽街道を下鳥羽から横大路 |
へと錦旗をなびかせながら進んだ。これに対し、会津藩の白井五郎太夫隊は隊を二分し、 |
一隊は淀小橋で土砂を詰めた樽で陣地を築き、他の一隊は砲二門を曳いて、西軍を |
押し返しながら下鳥羽まで進撃したが、おりからの日没で追撃を中止した。白井五郎大夫 |
は富ノ森北端に後退し、ここに陣地を設営。上田亥佐美隊、堀半右衛門隊と交替して |
自分は淀へ戻り、東軍の主力を八幡におき、鳥羽方面から来る敵は富ノ森で、伏見方面 |
から来る敵は宇治川堤千両松付近で迎撃することにした。果たして、五日の富ノ森での |
戦闘は激戦となった。 |
■午前七時、西軍は攻撃を開始した。篠原国幹の三番隊、大山弥助の二番砲隊を |
前軍として五番隊、六番隊、一番砲隊、長州藩第三中隊がこれに続いた。これに対し |
東軍の酒樽陣地の砲が火蓋を切った。さらに近付く敵には銃撃を浴びせ、機をみて |
会津藩槍隊が突撃を敢行したが、西軍には狙撃兵がいてこれを狙い撃った。多数の |
犠牲者を出しつつ会津藩兵は新手を繰り出して執拗に突撃を繰り返したが、やがて |
銃火器対刀槍の威力の差が現れ、西軍は富ノ森、千両松の両方面を突破して午後 |
二時近くには、淀に向かって肉薄し、東軍は淀小橋・大橋を焼いて八幡・橋本方面へ |
と退却した。 |
■会津藩はこの戦いで別撰組の大半を失い、佐川隊の隊長佐川官兵衛も傷を負い、 |
新選組副長助勤井上源三郎ら九人も戦死した。 |
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