会津の歴史 戊辰戦争百話

◆序章4:京都守護職の受諾◆

松平慶永は、会津藩家老の横山常徳を呼んで京都守護職拝命の内意を示した。当
時容保は病床にあったので重臣を登城させ、容保は非才でこのような大任にあたる
自信のない事もし大任をお請けして万一過失の生じた場合は一身一家の過ちではす
まされず、将軍家に累を及ぼし、その結果は国家に累を及ぼすことにもなる。そう
なれば万死をもっても償えない事態になるとして固く辞退したのであったが、幕閣
はこれを聞き入れず、とくに慶永は自身で容保を訪ねお役をお引き受けするように
と勧告した。
国元では容保に京都守護職の内命が伝えられたと聞き、物情騒然としたこの時期
に京都守護職を請ければ、会津藩が渦中に巻き込まれることは誰の目にも明白であ
ったから、事態を重視した国家老の西郷頼母・田中土佐は急遽江戸に上り、時勢を
説いて容保を諌止した。しかし「我家は宗家と盛衰存亡をともにせよ」という藩祖
正之の制した家訓があり、それに辞退は一身の安全をはかるためだとの世評もあっ
て、容保はついに守護職を受諾したのであったが、このとき既に会津藩の悲劇的な
運命は決せられたといってよい。
守護職の任務は皇居の守護ということであったが、実質は天皇や公卿を扇動しよ
うとする藩や浪士らを監視し、弾圧することがその主たる任務であった。文久二年
(一八六二)十二月二十四日、容保は藩兵一千人を率いて京に入った。隊列は一里
におよび、無秩序に近い混乱をみていた市民に強い安堵感を与えたという。会津藩
の本陣には黒谷の金戒光明寺があてられた。この寺は浄土宗の一本山で、その境内
はあたかも城塞のようにつくられていた。この本陣はやがて攘夷派の志士や浪士た
ちから仇敵の牙城のようにみられるようになった。
文久三年二月二十三日、京都北野の等持院にあった足利尊氏以下三代の木像をひ
きだして首を抜き、これを三条大橋の下に梟首にするという事件が起きた。朝廷へ
悪逆を尽くしたから天誅を加えるという傍書があった。これはつまり、徳川将軍も
天皇の命にそむけばこの通りと脅かしたものであったから、京都守護職となったば
かりの会津藩松平容保は、ただちに公用局にその犯人を探らせた。
すると江戸の国学者諸岡節齋・伊豫の尊王攘夷派三輪田綱一郎、それに会津の大
庭恭平らの名が挙がった。
そこで二十六日、京都守護職は彼ら一味を逮捕し、諸岡節齋・大庭恭平は信州上
田藩に禁固、三輪田綱一郎は百日押込めのあと但馬豊岡藩に禁固された。
大庭恭平は上田に檻送されるや「文久三年以て梟足利将軍木像首之罪就縛因賦」
の詩を作り、幽室を自ら名付けて「安楽窩」と称した。これ以来京都では「天誅」
の名のもとにテロの嵐が吹きはじめるのである。
同年二月、将軍家茂の上洛に列外警護の名目で京都に着いた浪士組があった。芹
沢鴨・近藤勇・土方歳三ら二十余名はその後壬生村に屯所を置き、「新選組」と称
して容保の支配下におかれ果敢な行動を開始した。彼らは芹沢にかわって近藤が隊
長となるや、隊規が厳しく勇敢で、尊攘派浪士にとっては一敵国を形成するように
なり、京都は尊攘派と幕府を支持する佐幕派とが、しのぎをを削る一大政治舞台と
なった。
■会津藩第九代藩主
■■松平容保
(まつだいら・かたもり)


写真は、文久三年(1862)
孝明天皇に、馬揃を披露した時のもの。
馬揃とは、正規の装備をした兵士による
軍事調練。

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