会津の歴史 戊辰戦争百話

◆序章3:黒船来航と会津藩◆

弘化四年(一八四七)二月、会津藩に安房・上総の江戸湾警備が命じられた。
先の文化・文政のときの警備とは違い、今度は国際情勢もはるかに緊迫し外圧の到来
が現実のものとして考えられていた。しかも幕府からなにがしかの補償はあるにせよ、
警備隊の駐屯には莫大な費用がかかる。天保の凶作で藩の財政は極度に悪化している時
でもあり、会津藩は度重なる出兵に不満を示し、辞退する旨老中阿部正弘に上申した。
しかし幕府は、房総の警備は極めて重要であり、会津藩の武備の充実を理由に
「御身辺の御家」だからこそ仰せつけるのだと強硬であった。
結局、引き受けざるを得なくなった会津藩は、三月五日から出兵に着手した。はじめの
兵力は総支配の軍事奉行・黒河内十太夫以下幹部二十七人、組士六十一人、寄合組
五十人、足軽八十人、船方十五人など総数二百三十三人であった。そして一隊は富津、
一隊は竹岡に駐屯して警備に当たった。
明くる年、藩主・松平容敬は房総に出向いて警備地の視察を行って士気を鼓舞したが、
この時の兵力は一千四百人に膨れ上がっており、大砲・小銃が四百七十挺、新造船十九隻
を擁し士気頗る盛んであった。
会津藩が警備についた二年目の嘉永二年(一八四九)果たせるかなイギリス船が
三浦半島の三崎沖に姿をあらわした。浦賀からの急ぎの注進で竹岡・富津の両陣屋から
物見の舟を出したが、イギリス船は薪水を要求したので幕府はこれを与えて帰した。
しかしその帰路、彼らは伊豆の下田港に勝手に入港して上陸するなど、幕府を刺激して
去った。
海防の重大さを知らされた幕府は、諸藩に外国船渡来について率直な意見の提出を
命じた。これに対して容敬は、沿岸警備の十分でない現在、いたずらに強硬方針で
臨むのは、良くないと述べ、さらに江戸湾の防備を厳重にすべきであると「御台場」(砲台)
設置の具体策を提出し、江川太郎左衛門にヘキザン大砲 (口径24cm)を鋳させ、
安房の砲台に備えるなどの積極的な姿勢をとった。
嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ海軍准将ペリーは軍艦四隻を率いて浦賀に入港し
日本の開国を要求した。さらに翌安政元年、正月早々ペリーは再び七隻の軍艦を率いて
やって来たが、彼らの行動は外交交渉などというものではなかった。
 江戸城の喉元に上陸し威圧を加えたのである。
 幕府はこの圧力に屈し、遂に日米親和条約(神奈川条約)を結んだのであった。
会津藩はこの年の夏、第二御台場に移ってここの守備を担当することになるのだが
今、東京湾に残っている御台場は、会津の藩士たちが遠く故郷を離れて貧困とたたかい
ながらも、大砲を構え、西欧列強の黒船を睨んで対峙していた跡である。
会津藩江戸湾警備地
▲会津藩江戸湾警備地
次→◆序章4:京都守護職の受諾◆