会津の歴史
会津近世の開幕

◆武人蒲生氏郷◆

 南伊勢に君臨し、大河内(おおごうち)城に本拠を移して対決姿勢を崩さない北畠具教に対し、
信長は八万の軍勢を差し向けることになった。日野城の父賢秀のもとへも、南伊勢出陣の命が
下された。総大将信長の近侍として初陣することになった忠三郎賦秀(ますひで=氏郷)は、
大河内攻めの陣中で父賢秀の陣へ配されることになった。嫡子賦秀を配下に迎えた賢秀は、
蒲生軍内でも剛の者として知られた結解(けっけ)十郎兵衛と種村伝左衛門という二人の強者を
介添えに付けたところ、彼らは若殿を守護しながら乱戦するうちに、いつしか賦秀の姿を見失って
しまった。賢秀は二人を叱り飛ばし、
「汝らを付け置きしは何の為ぞや。討たれてやあらん。如何せん!」
と声を荒げて介添えの二人を罵っていると、当の賦秀は敵の首を一つぶらさげて姿をあらわした。
賢秀はその返り血を浴びている我が子の姿を見て驚き、当座の賞として手元にあった打蚫を
褒美として与えた。
 そして翌年、信長はかねてからの見込みどおり、将来の名将となるであろうこの賦秀に、側室の
一子冬姫を娶わせて、岐阜の城内において祝言を挙げさせたのである。このとき賦秀十五歳、
冬姫十二歳であったが、ここにおいて賦秀は若年ながら信長配下のれっきとした若大将となった
のである。
 『名将言行録』によると、元亀二年(一五七一)賦秀十六歳のとき、織田金左衛門尉という者
が、天下に名高い名馬を持っていた。あるときこの金左衛門は
「次の合戦で一番乗りをして大功をたてた者にこの名馬を進ぜよう」
と言った。すると賦秀は、次の合戦では必ず自分がそれに見合う働きをすると約束してこの天下の
名馬を貰いうけてきた。そして十日ほどの後、武田晴信との合戦に約束通り一番乗りの高名を
たてたのだった。氏郷は“小雲雀”という名馬を持っていたと伝えられているが、このときの名馬が
“小雲雀”だったのかもしれない。
 また言う、
「氏郷(賦秀)は十七、八歳の頃、信長に申しけるは、又者に罷り成ることに候えども、柴田
勝家にお附け下され候えかし。天下の先手にて候間、武士の体見習い申し度しと望みければ、
信長もっともなりと言われて、柴田に附けられたり」
ともある。又者というのは家臣の手の者ということで、直臣でないことになる。賦秀は信長の娘婿
であってみれば直臣というよりも信長の身内である。にもかかわらず、信長の家臣柴田勝家の
戦場における手の者になろうとした理由は、勝家はいかなる合戦においても常に先陣を勤める
ということになれば、まさに信長の全軍中の最先鋒を勤めるということになる。賦秀はこのようにして
身をもって武士の体を見習おうとしたのである。
 こうした一方で、信長は、家来を新規に召し抱えるときなどは一緒に風呂に入り、
「わが旗本には銀の鯰尾の兜をつけ、つねに先陣に進む者がいる。しかしお前は、必ずや
その者に負けるでないぞ」
と。ところがその銀の鯰尾の兜の主こそ誰あろう、蒲生賦秀その人であったというのである。
 このことについて賦秀は、
「主将として、衆人を戦場に使うには、ただ掛かれ掛かれと指揮しては掛からざるなり。
掛かれと思うところには、主将自らその場に至りて、ここへ来れと言えば、主将を見捨てる者は
あらざるなり」
と、戦場における主将としての心得をのべている。
 賦秀は越前に朝倉を攻めたときも、長島の一向一揆攻めにも、武田と激突した長篠の合戦
においても、いつも誰よりも真っ先に敵陣に突っ込み、奮戦した。だが、岳父である信長は
賦秀のこの勇猛さを喜ばず、
「首を討ち取り、敵を斃すのは士卒のすることで大将のすることではない。お前は敵を討つ危険
を知らない。良い首を取ったところでお前の高名にはならない」
といってたしなめたことがある。だがこうした信長の忠告にもかかわらず、氏郷の先陣に臨むや
常に先頭に進む姿はいささかも変わるところがなく、銀の鯰尾の兜で戦う賦秀の勇名はますます
天下に鳴り響いた。とくに月夜の合戦では銀肌の鯰尾は月光に映えて一際目立ち、そのため
しばしば狙撃の目標となった。天正十二年(一五八四)、伊勢の木造左衛門佐長正との戦い
では兜の胴腹に弾丸三発を受け、軽々大将という批評も出るほとであったが、それでも賦秀の
戦闘に対する考え方は少しも変わらなかったという。
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